豊橋ではかつて「きれいで安全な飲み水」がなく、多くの人が病気になって大変困っていた時代がありました。そして、現在においても世界の多くの国々では「きれいで安全な飲み水」がなく、汚れた水を飲んでいることが原因(げんいん)で多くの人が亡(な)くなっています。 私たちの命と「大切な水」のかかわりについて、豊橋の水道・下水道の歴史をとおして学習してみよう。 江戸(えど)時代おわりから明治(めいじ)時代はじめにかけて、日本では開港している都市を中心に、コレラ・チフスなどの伝染(でんせん)病が広がり問題になっていました。伝染(でんせん)病の原因(げんいん)は、汚(よご)れた飲み水でした。明治(めいじ)20年(1887年)に横浜(よこはま)市ではじめて水道がイギリス人パーマーらによって造(つく)られました。豊橋では明治(めいじ)45年(1912年)に陸軍(りくぐん)がきれいな水を必要(ひつよう)としたため、飯村(いむれ)町字高山の山から旧(きゅう)高師(たかし)村(現(げん)富本(とみもと)町のあたり)兵舎(へいしゃ)まで専用(せんよう)の水道を引いたのがはじまりで、約(やく)1万人の兵士(へいし)と馬の飲み水に使われました。
大正8年(1919年)ごろの豊橋は、陸軍(りくぐん)や繊糸(せいし)業などでにぎわいをみせていましたが、市内の狭(せま)い道路の両側(りょうがわ)には民家(みんか)がたくさん集まって、雨が降(ふ)ると狭(せま)い道路は泥沼(どろぬま)となり低(ひく)いところでは悪臭(あくしゅう)・うじ・ハエに悩(なや)まされていました。飲み水はすべて家にある井戸(いど)水でしたが、このなかには汚(よご)れた水や雨水が流れ込(こ)む井戸(いど)もあり、一度伝染(でんせん)病が広がるとたくさんの人が亡(な)くなりました。(大正3年(1914年)の水質検査(すいしつけんさ)では、市内全井戸(いど)の8割(わり)は汚(よご)れていました。)また、毎年3月・4月にかれてしまう井戸(いど)が多くありました。 都市計画法(ほう)が大正8年(1919年)4月に公布(こうふ)され、豊橋市は東京・横浜(よこはま)などに続(つづ)いて指定を受け、計画的(てき)に交通・衛生(えいせい)・安全・経済(けいざい)の近代化を図り都市化することを決めました。
完成した野田処理場
豊田踏切鉄道横断工事
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