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3 二川宿の景観まちづくり(1)
3 二川宿の景観まちづくり(1)

(1)二川宿とは

二川宿の成り立ち

 二川宿は江戸日本橋より数えて三十三番目、遠江国より三河国に入って最初の宿場でした。慶長6年(1601)、徳川家康が東海道に宿場を設置した当初からの宿と言われており、当初は東西に12町(約1.3km)ほど離れた二川村(二川村元屋敷)と大岩村(大岩村元屋敷)の二村で一宿分の役目をはたしていました。
 しかし、両村は離れていたため不都合で、参勤交代などで交通量が増えると経済的に行き詰ってしまいました。そこで、寛永二十年(1643)に吉田藩領から幕府領に移され、翌正保元年(1644)に両村は現在地に移転し、二川と加宿大岩からなる一続きの宿場町となりました。
 二川と加宿大岩では定められた100人の人足と100疋の馬を等分に負担しましたが、加宿であった大岩では旅籠屋を営業して、旅人を泊めることはできませんでした。
 二川宿は、東海道五十三次の中では比較的小規模な宿場町で、天保14年(1843年)の記録では、加宿大岩を含めて人口で42番目(1,468人)、家数で41番目(328軒)、旅籠屋数では36番目(38軒)でした。宿場内は二川が東から東町、新橋町、中町の3町からなり、加宿大岩は中町、茶屋町の2町からなっていました。まち並みの長さは12町16間(約1,340m)で、2箇所に街道を屈曲させた枡型が設けられていました。

                   二川宿成り立ち

二川宿のまち並み

 計画的に建設された二川宿は、間口が狭く奥行きの長い宿場町特有の宅地割りが行われ、街道に沿って家々が軒を連ねていました。また、寺院や神社は比較的土地の高いまち並みの北側につくられました。本宿である二川には、東から東町、新橋町、中町の3町が並び、江戸時代後半には新橋町の北側に瀬古町が形成されました。宿場の中心は中町にあり、本陣、脇本陣、旅籠屋などの宿泊施設や、人馬の継立を行う問屋場などが集中していました。宿場の東の入口には江戸より72里目の一里塚があり、榎の木が植えられていました。
 一方、加宿大岩は、東から中町、茶屋町の2町があり、中町には問屋場があり、茶屋町の西端には立場茶屋が置かれていました。

                    二川宿まち並み

          →次のページへ(2)二川宿のまちづくり景観形成地区(二川宿景観形成地区)

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